城端別院では、永代祠堂経や拝観案内を受け付けております。
(受付:問合せ時間)午前9時~午後5時
拝観案内料 1人 500円(係の案内で別院各部屋をご案内致します。)
※拝観案内は、事前に申し込みが必要になります。
※宝物収蔵館は、休館中となっております。
○宿泊・・・(詳細は別院寺務所へお訪ねください。)
本堂は宝暦9(1759)年に上棟し再建され、約250年間1 度も火災で焼失することなく現存しております。再建当初は資金が不足し細部まで仕上ることが出来ず無念の未完成となりましたが、この地域を生きた先人達は約250年の刻をかけて少しずつ細部を仕上げ、仏法の場を守り伝えて下さいました。お勤めと法話は365日欠かすことなく行われ、現在でも昔と変わらず午前6 時と午後2 時には地元の方が足を運ばれ法話に耳を傾けております。毎日法話がある寺院は今となっては数少なくなりましたが、皆様にはいつでも仏法の御法縁にふれて頂けるよう勤めている次第で御座います。そして法話は本堂だけではなく富山県西部全域、石川県にまで足を運び勤められております。その御縁があり各地域の方々からの心ある御懇志によって城端別院善徳寺の護持運営がなされ本堂が守られております。本堂はどなたでも自由に参拝することができますのでお気軽にお越しください。
現在の山門は文化12(1815)年に再建され、午前5時から午後5時まで開門しております。楼上には釈迦三尊(左:阿難尊者、中心:釈迦如来、右:弥勒菩薩)が安置され、天井には狩野派絵師による天女と迦陵頻伽が描かれ現在も色あせる事無く当時のまま残されています。明治時代に町を焼いた大火の際は目前まで火の手が迫り危うく山門が焼失するところでありましたが、町民は我が家に炎が迫り来ているにもかかわらず防火道具であった火消うちわを手に取り山門に集まり大工は山門屋根に登りました。そして炎に臆することなく向き合い降りかかる火の粉をはらい城端別院を守ったそうです。町の人々は仏法の教えを聴聞し悩み、辛さ、苦しさを乗り越え心豊かに強く優しく生きて来られました。当時の人々にとって次の世代に残す財産とは金品等ではなく人間性を育てる心の場であったと云うことではないでしょうか。
山門楼上は涅槃会(2月14日)と虫干法会(7月22日~28日)には開放され、涅槃会では門信徒の皆様と楼上に上がり勤行と法話を勤めております。
天明元(1781)年に上棟され、旧鐘楼は小矢部市にある乗永寺へ移築され現在も使用されております。梵鐘はもともと時刻を知らせる為に使用されており、今でも午前6時の晨朝勤行30分前に打ち鳴らされ、町中にこの鐘の音が鳴り響きます。
この鐘楼造営では棟梁を決めるにあたりある難問が出されました。それは加賀藩大工頭である山上善五郎より出された図面が実物の何分の一になるかを正解せし者に棟梁を仰せつけると云うものでありました。その図面には実寸が割り出せる寸法が巧妙に隠されており、この難問を解くことが出来たのは弱冠18歳の地元大工である山村与四郎だけでありました。山村与四郎は約束通り棟梁を仰せつかり見事にこの大鐘楼を完成させましたがそれは血の滲むような苦労の結果でありました。山村与四郎は不可解な点があると日没後に金沢城下まで走り加賀藩大工頭山上善五郎の教えをうけ翌朝までには必ず仕事場に戻って来られたそうです。大工頭山上善五郎は深夜でも門を開け明かりを灯し快く山村与四郎を受け入れ、この情ある師の思いやりに一層奮起を覚え山村与四郎は金沢へ走ることを苦にしなかったと伝えられております。
善德寺は山門楼上に釈迦如来、本堂に阿弥陀如来が安置され、境内自体が二河白道を現しています。二河白道とは阿弥陀如来の救いを説く比喩であり、火の河と水の河を人の貪欲と怒りにたとえ、その二河にはさまれたひとすじの白い道を浄土に
至る信心にたとえたものであります。
参拝時には釈迦如来に導きと阿弥陀如来の招きをうけ白い石畳の道を渡り浄土を現す本堂へお入り下さい。
嘉永2(1849)年に加賀藩主の御子息である亮麿が第16代目の住職として入寺した際に加賀藩の援助で建てられ門であり、通常は開かずの門となっております。開門は4月上旬に城端町で開催されるしだれ桜祭と、11月の報恩講において本山より御門首または御鍵役をお迎えする際の年2 回となっております。それ以外では仏前結婚式を挙げられる新郎新婦の入堂の際には式台門を特別開門しております。
対面所は加賀藩主の御子息である亮麿が住職として入寺された際、上段の間の増設や天井等の改築が行われ以前より格式の高いものになりました。向って右手には城と同じく武者隠しの扉があり、手前の欄間は加賀藩が梅鉢紋という事で梅の彫刻が施されております。
城端別院の中で最も古く500年以上前のものではないかと云う説もあります。過去には加賀藩2 代目藩主前田利長公が鷹狩の際この部屋に宿泊されたという古文書の記録が残っております。
別院各所には牡丹や菊等の釘隠しが見られますが、大納言の間にはウサギの形の釘隠しが使われております。ウサギ型は前田家が江戸中期から後期にかけてよく使用したものであることから加賀藩の援助で修復が行われた可能性があります。釘隠し一つでも建てられた年代や、改修工事があった年代、どのような権力者や大名との関係があったかという事がわかり、歴史に触れがなら建物の細部を見ていくのも面白いのではないでしょうか。
加賀藩主の御子息である亮麿が住職として入寺された際に日常使用する御殿として建築されました。
この御殿の天井は板ではなく紙を貼った吊り天井になっており、床下にはしじみの貝殻が敷き詰められております。これは賊の侵入対策ではないかと言われており、亮麿が藩主の御子息ということで、後々前田家に戻られる可能性を考えたのか、または約60年ぶりに迎え入れることが出来た待望の住職の身の安全には特に気を配ったのかは今となっては知る由もありませんが、当時の文化や習慣、人々の気持ちを思い描きながら歴史に触れるのもひとつの楽しみではないでしょうか。
太鼓堂は城端城主荒木大膳の居城の遺構であると伝えられ、元亀3(1572)年に善德寺の式台の前に建てられたとされています。嘉永2(1849)年頃の式台門建築の際、現在の台所門横に移築されました。
太平洋戦争が勃発するまでは、階上に太鼓を備え毎朝夕に叩いて時を知らせ、町民に親しまれてきた建物です。